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わかった気になる!!日本史 戦国時代編

 

A「今日は戦国時代について見て行きます。ですが、扱うのは『織田信長』の台頭から『大坂夏の陣』までです。」

B「戦国時代か…『織田信長』と『豊臣秀吉』と『徳川家康』しか知らないな。というか、なんで戦国時代になったの??きっかけって何??」

A「それは室町幕府のときにおこった1467年におこった『応仁の乱』です。8代将軍の『足利義政』の後継者を決める時に、弟(足利(あしかが)義(よし)視(み))にするか息子(足利(あしかが)義(よし)尚(ひさ))にするかで揉めたんだ。」

B「ふ~ん」

A「で、これが日本中の守護大名を巻き込んだ壮絶な戦いになりました。この戦いは10年も続き、そのことで京都は荒廃してしまいます。」

B「で、結局どっちが後継ぎになったの??」

A「9代将軍は『足利(あしかが)義(よし)尚(ひさ)』になりました。しかし、この戦いから幕府の権威は失墜して地方で各々勝手に自分の土地を支配していました。で、この人たちが『戦国大名』になっていきます。」

B「で、『織田信長』とかはいつ出てくるの??」

A「約100年後ですね。」

B「そんなに後なのかよ!!」

A「ということで、次は『織田信長』の台頭を見て行きましょう。1560年に『今川義元』が『尾張(おわり)』(愛知県西部)に攻めてきました。これが『桶狭間の戦い』です。」

B「確か『織田信長』が『今川義元』の本陣を奇襲して討ち取ったんだよね。」

A「そうそう。今川軍が2万5千に対し、織田軍はその10分の1ほどだったので、かなりの逆転劇ですね。この戦いから今川家は没落していき、逆に織田家は急成長します。」

B「次の戦いは??」

A「次はところ変わって1561年に信濃(長野県)で起こった『川中島の戦い』を見て行こう。ちなみにこの戦いは5回ほどありますが、今回は有名な4回目だけを取り上げます。」

B「なんか聞いたことある戦いの名前だな。」

A「『上杉謙信』と『武田信玄』の戦いです。この時『武田信玄』の参謀には『山本勘助』がいました。ちなみに、この時『山本勘助』が考えたといわれる作戦名ってなんでしょう??」

B「『ウソツキ戦法』だっけ??」

A「『キツツキ戦法』だよ!!」

B「でも結局ウソついて騙し討ちする作戦なんでしょう??」

A「そんなこと言ったらほとんどの戦法が『ウソツキ戦法』になるわ!!」

B「『捨てかまり』とか『釣り野伏せ』とか…でも『組撃ち鉄砲』とか『兵糧攻め』は別に『ウソツキ戦法』ってわけじゃないよね。」

A「そんなマイナーな戦術知ってて、なんで『キツツキ戦法』知らないんだよ!!」

B「で、『キツツキ戦法』って何??」

A「キツツキの習性で、餌をとるのにワザと後ろに回って木をつついて、虫が驚いて出てきたところを取るんだけど、『武田信玄』の隊を二つに分けて山の上にいる『上杉謙信』の背後を奇襲。驚いて山を下りたところを、もう一つの隊で撃破する、って作戦さ。」

B「実際この作戦上手くいったの??」

A「『上杉謙信』によって見破られてしまい、先に山に下りていました。そこで隊を分けたことによって少なくなっていた『武田信玄』を逆に奇襲しました。」

B「ダメじゃん。」

A「作戦失敗を受けた『山本勘助』は敵に突撃。討ち取られてしまいました。」

B「ダメダメやん『武田軍』」

A「でも、別働隊も『上杉軍』がいないことに気づき、そのまま山を下りて『上杉軍』を挟撃。形勢逆転しました。で、そのまま痛み分けって感じでこの戦いは終わりました。」

B「どっちが勝ったとは言えないのね。」

A「そういうこと。あと、『敵に塩を送る』って言葉があるけど、意味わかる??」

B「確か…『敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にあるときには助けてあげること』だったかな??いきなりどうしたの??」

A「この言葉の由来が『武田信玄』と『上杉謙信』から来てるんだよ。『武田信玄』が敵の策にはまって塩が手に入らなくなって困っているときに、『上杉謙信』が塩を送ったという話です。」

B「なるほどねぇ」

A「ここで『織田信長』の話になるけど1567年美濃(岐阜県)で『稲葉山城の戦い』が起こります。」

B「どうなったの??」

A「まぁ『織田信長』が勝ったんだけど、この頃から『天下布武』を掲げ天下統一を目指すようになります。そして、この戦で出世したといわれるのが『豊臣秀吉』です。」

B「何したの??」

A「『墨俣(すのまた)一夜城』を築いたといわれています。そこを拠点にして敵を攻略したといわれています。」

B「すごいね。」

A「まぁ、でもこれ嘘だからね。」

B「『墨俣(すのまた)一夜城』とはなんだったのか…」

A「『織田信長』は1568年に『足利(あしかが)義(よし)昭(あき)』を奉じて入京。しかし1970年に『織田信長』は窮地に陥ります。」

B「何があったの??」

A「『織田信長』が越前(福井県)の『朝倉義景(あさくらよしかげ)』を攻撃しました。しかし、『織田信長』の妹婿であった『浅井(あざい)長政(ながまさ)』の裏切りに会いました。そこで、『織田信長』は撤退します。この撤退戦を『金ヶ崎(かねがさき)の戦い』と言います。」

B「逃げる戦いなのね。」

A「この時、最後尾を任されたのが『豊臣秀吉』と『徳川家康』です。この二人の頑張りによって、何とか逃げ延びることが出来ました。」

B「ふ~ん。逃げ延びた『織田信長』はどうするの??」

A「もちろん、報復します。1970年には『姉川(あねがわ)の戦い』で『浅井・朝倉連合軍』を倒します。しかし、『浅井・朝倉連合軍』もただでは起き上がらず、『比叡山』の僧侶や『石山本願寺』の『一向一揆』と手を結び、『信長包囲網』を完成させます。」

B「『比叡山』ってのは聞き覚えがあるな。」

A「そうです。怒った『織田信長』は1571年に『比叡山焼き討ち』を行います。」

B「なるほどね。」

A「また1572年には『三方ヶ原の戦い』が起こりました。」

B「誰の戦なの??」

A「『徳川家康』と『武田信玄』の戦いです。で、『徳川家康』が大敗しました。」

B「へぇ~『徳川家康』も負けるんだね。」

A「そして、1573年に『小谷城の戦い』が始まります。『織田信長』と『浅井・朝倉連合軍』の戦いです。」

B「また、こいつらかよ!!」

A「『小谷城』で孤立していた『浅井長政』を助けようと『朝倉義景』が援軍を出しますが、『織田信長』に撃退され『朝倉義景』は自害してしまいます。その後、総攻撃を仕掛け『浅井長政』は自害してこの戦いは終わります。」

B「ようやくこの二人が滅亡したか…」

A「また同じ年に、『織田信長』は以前から反抗的だった『足利義昭』を京都から追放して室町幕府を滅ぼします。」

B「一応ここまでが室町時代なのね。」

A「まぁ一応ね。そして1575年『織田・徳川軍』が『武田勝頼(たけだかつより)』と戦います。これが『長篠の戦い』です。」

B「『武田信玄』はどうしたの??」

A「この時には死んでいます。『武田勝頼』は息子です。」

B「この戦いは『織田・徳川軍』が『三弾撃ち』で『武田騎馬軍団』を圧倒したんだよね。」

A「『三弾撃ち』…それって嘘だから。」

B「『三弾撃ち』とは何だったのか。ならどうやって倒したの??」

A「普通に鉄砲いっぱい撃った。そんでゴリ押しした。」

B「なんだゴリ押しかよ。」

A「もともと『織田・徳川軍』が3万8千で『武田軍』が1万5千だからね。まぁでも、鉄砲の数は当時にしては、たくさん用いたのは事実らしい。」

B「ふ~ん」

A「次はいよいよ『豊臣秀吉』の番だ。この頃にはすでに有名になっていて『織田信長』から中国地方の『毛利(もうり)輝元(てるもと)』を攻めるため進軍していました。そこで、毛利氏の配下の武将と戦ったのが『備中(びっちゅう)高松(たかまつ)城(じょう)の戦い』です。1582年だな。」

B「どこにあるの??高松ってことは香川県なの??」

A「『備中』だから岡山県ね。ここで軍師『黒田官(くろだかん)兵衛(べえ)』が『水攻め』を提案。『豊臣秀吉』はそれを採用し『高松城の水攻め』を開始する。」

B「『水攻め』か…すごい作戦だね。」

A「この作戦によって相手を追い詰めました。しかし、ここで『本能寺の変』によって『織田信長』が自害したとの情報が入る。なので、ここから『明智光秀』を討ちにいかねばならなくなった。」

B「そうなんだ。なら早くいけば。」

A「でも、相手にそれを気取られると交渉が不利になるので、この情報を隠し続けました。すると高松城側は『水攻め』で意気消沈していたので、和睦を早く結ぼうとしていました。こうして、すぐさま和睦を結んで『中国大返し』を行い、京に戻りました。」

B「そして、そのまま『明智光秀』を討つんだよね??」

A「そうです。これが『山崎(やまざき)の戦い』です。ちなみに『本能寺の変』を聞いたとき『徳川家康』は堺にいました。」

B「『山崎の戦い』ってたしか『天王山(てんのうざん)』をめぐって戦ったんだよね??」

A「あぁあれ嘘だから。」

B「『天王山』とは何だったのか。」

A「『天王山』のふもとで戦いはあったんだけど、この山を占拠して『明智光秀』を牽制し、戦いを勝利に導いた、ってよく聞くけど、実際にこの山の争奪戦があったかどうか分かってないらしいよ。」

B「そうなんだ。」

A「で、この戦いで『三日天下』に終わった『明智光秀』。ここで『徳川家康』の話に戻ろう。『本能寺の変』の知らせを聞いたとき、『徳川家康』は堺にいました。このままだと『明智光秀』に討たれる可能性があるので、自分の支配地に戻る必要がありました。そこで『伊賀越え』を行います。」

B「伊賀って言ったら忍者でござるか??」

A「ござるか??じゃねーよ!!ちなみに伊賀は今の三重県西部に当たります。この時『徳川家康』のそばに伊賀の出身だった人物がいます。」

B「『服部卓四朗』だっけ??」

A「誰だそいつ!!『服部半蔵』だよ!!この人の地の利を生かし、『伊賀越え』を成功させます。ちなみに今の『皇居(こうきょ)』の前に『半蔵門』ってあるけど、これはまさしく『服部半蔵』がこの門を警備していたことから、付けられた名前なんだよ。」

B「そうだったのか。そして、『豊臣』はどうなるんだ??」

A「『織田信長』の後継者争いから『豊臣秀吉』と『柴田勝家』が『賤ヶ(しずが)岳(たけ)の戦い』で争います。」

B「ふ~ん」

A「この戦いで勝利した『豊臣秀吉』は自身の勢力を拡大。ここで『徳川家康』と対立し、1584年に『小牧・長久手の戦い』が起こる。」

B「『豊臣秀吉』と『徳川家康』が戦ったんだね。」

A「正確に言うと『豊臣秀吉』と『徳川・織田信雄連合軍』かな。『織田信雄』は勢力を増していく『豊臣秀吉』を警戒し、『徳川家康』に支援を求めました。」

B「それで戦争が始まったのね。そんでどうなるの??」

A「『徳川家康』が優勢だったんだけど、『豊臣秀吉』の別働隊が『織田信雄』の本拠地を攻めて制圧していたので、『織田信雄』は『徳川家康』に無断で和睦して戦線を離脱。戦争の大義を失ったので『徳川家康』も撤退しました。」

B「勝敗つかずってことか。」

A「そこで次はこの戦いで『徳川家康』を味方した四国を制圧している『長宗(ちょうそ)我部元(かべもと)親(ちか)』を倒そうとしました。」

B「四国を攻めたのね。」

A「圧倒的物量で四国を攻めた『豊臣秀吉』は、四国を平定し『長宗我部元親』を土佐(高知)に追いやりました。」

B「四国を落とした後はどこに行くんだ??」

A「日本を豊臣の支配下に置くために次は1587年『九州征伐』を行います。ここで、九州統一を計りたい『島津義久』と対戦します。そこで、ここでも圧倒的物量作戦に出て『豊臣秀吉』が勝利します。」

B「順調に進んでるんだね。」

A「そして今度は相模(神奈川県)に目を向けます。ここには『北条氏政・氏直』親子がいたので『小田原征伐』に向かいます。そこで『豊臣秀吉』は『石垣山一夜城』を建築。敵の士気を大きく低下させることに成功しました。しかし、それでも降伏するか抗戦するか悩んでいました。このように『一向に結論が出ない会議』のことを『小田原評定』といいます。」

B「この一夜城もどうせ嘘なんでしょう??」

A「これはホントだよ!!まぁさすがに一日で作ったわけじゃないけど。まず築城に3万から4万人を動員して80日で作って、さらに突然できたかのように見せるために、築城してすぐに目の前の林を伐採したんだ。」

B「なるほどね。まるで1日で出来たかのように見せかけたんだね。」

A「そのほかにも余裕を見せつけるために『千利休』などを呼んで『茶会』を連日開くなどしていました。また、この戦いに遅れてやってきたのが『伊達正宗』です。」

B「なんで遅れてきたの??」

A「『伊達正宗』の父の代は『北条氏』と同盟を結んでいたため、迷っていたらしいよ。で、『小田原征伐』を行った『豊臣秀吉』は『奥州仕置』を行います。『小田原征伐』に参加してくれた奥州の大名には領土を増やしたり、来なかった大名や刃向った大名には『改易』や『減封』を行いここで、日本を統一しました。」

B「『伊達正宗』はどうなったの??」

A「なんとか『減封』で済みました。」

B「これで、日本統一完了したけど、次はどうなるんだろう??」

A「次は『明』を攻めようとしました。そしてその道案内を『朝鮮』の人たちに頼んだところ断られたので、1592年に『文禄の役』を行います。」

B「朝鮮出兵ね。『明』を攻めるためにまず『朝鮮』を攻めたのね。」

A「『小西行長』は『平壌』を制圧したり、『加藤清正』は『満州』にいき『女真族』と戦っています。しかし、明軍の援軍や朝鮮水軍の『李舜臣(イスンシン)』の活躍などにより劣勢になり停戦。」

B「ふ~ん」

A「しかし、このまま『豊臣秀吉』に報告すると、どうなるか分かったものではないので、『明が降伏』と嘘の報告をしました。一方明のほうも『日本が降伏』として嘘の報告をしています。」

B「なんか取り返しがつかなさそう…」

A「そして、明の使者が日本に来て『豊臣秀吉』に謁見しました。その時の明側の話が報告とあまりに違っていたので、激怒した『豊臣秀吉』はもう一度『朝鮮出兵』を決めます。」

B「まぁウソがばれたと。」

A「そして1597年『慶長の役』が起きます。この戦いでも勝ち進んでいましたが『李舜臣』の活躍や、『豊臣秀吉』の死亡を受けて撤退します。」

B「結局『明』を倒しに行くことは失敗したんだね。」

A「しかし、これらの戦いで明の国力を疲弊させたことなどが遠因となり『女真族』の『ヌルハチ』が明から独立して『後金』をつくり、その後、この『後金』が『明』を破って『清』になります。」

B「そうなんだ。って言うか『豊臣秀吉』死んじゃったんだ。」

A「そうです。そして日本ではまたひと騒動起こるわけです。」

B「何が起こるの??」

A「『会津征伐』です。『徳川家康』は『上杉景勝』に対し、勝手に武器を集めたりしているのでこっちに来て説明しろ!!と言います。そこで、上杉家の家老『直江兼続』は『直江状』を書いて反論します。」

B「どんな内容なの??」

A「武器とか集めてるのはこっちの風習だし、橋とか道路整備とか領国経営として当然ジャン。あと、よく調べもせずに、こっちのこと疑ってんじゃねーよ!!話がしたいならお前がこっちに来い!!ってことが書かれたました。」

B「『徳川家康』にこれを書くのか…」

A「当然激怒した『徳川家康』は『会津征伐』をするために軍を整えました。しかし、ここで『石田光成』が挙兵したとの情報があり、『会津征伐』は行われませんでした。」

B「そして『関ヶ原の戦い』が始まるの??」

A「そうですね。1600年に起こった『関ヶ原の戦い』。『豊臣秀吉』亡き後、誰が天下を統べるのか??ちなみに関ヶ原はいまの岐阜県にあります。名前もまんま『関ヶ原町』です。人口は8千人です。」

B「岐阜にあるのか!!初めて知ったよ。」

A「話を戻すけど、『石田光成』ら西軍と『徳川家康』ら東軍が関ヶ原で戦いました。ここで質問。『裏切り者』として有名な人は誰でしょう??」

B「わからんよ。」

A「正解は『小早川(こばやかわ)秀(ひで)秋(あき)』です。」

B「誰だよそいつ。」

A「西軍から東軍に寝返った人ですね。」

B「それは確かにそうかもしれないけどさ、でも戦国時代なんでしょう??そりゃどこの大名だって勝ち馬に乗るもんでしょう。」

A「まぁそうなんだけどね。『小早川秀秋』は『豊臣秀吉』の養子でもあるのね。そして西軍の『石田光成』は豊臣政権を守るために戦っていたんだ。また同じく養子である『宇喜多秀家』は西軍として戦っていました。」

B「う~ん…」

A「さらに関ヶ原での布陣でも『小早川秀秋』は『松尾山(まつおやま)』を、同じく西軍である『毛利氏』も『南宮山(なんぐうさん)』という山を占拠しており『徳川家康』を挟み撃ちできる体制だったんだ。」

B「なるほどね。」

A「しかも『小早川秀秋』は1万5千の軍勢を率いていたので、かなり大きな戦力だったんだよ。戦いが始まったときに、日和見していたんだけど、『東軍から発砲されたので、驚いて西軍を攻めに行った。』って言うのが通説かな。」

B「そのまま東軍を攻めていたら歴史が変わってたかもね。」

A「また、『南宮山』にいた『毛利氏』の配下の『吉川広家』も東軍に内通しており、西軍からの再三の要請にも『今からご飯たべるから無理。』と言って『毛利氏』の邪魔をしていました。これを『宰相殿の空弁当』と言います。」

B「せっかく山を二つも制圧しているのに、これじゃあ駄目だね。」

A「また、この時敗北を悟った『島津義弘』は敵中突破しながら退却していき、『徳川家康』の本陣まで迫るものの、前に出てきた『捨てかまり』戦法を用いてそのまま退却していきました。まぁ、こうして『関ヶ原の戦い』は1日で決着がつきました。下に布陣図を貼ったのでご覧ください。この画像はウィキペディアからの引用です。」

















 

B「おぉ!!こんなになっていたのか!!黄色のが寝返った人たちだね。」

A「この戦いの後西軍についた大名は改易などされていきましたが、『毛利氏』は『吉川広家』の活躍が考慮され『防長2か国』に減封で済みました。さて、『徳川家康』は1603年に『征夷大将軍』になり『江戸幕府』を作りますが、最後に『豊臣』の勢力を排除するために『大坂の陣』を起こします。」

B「いよいよラストだね。」

A「1614年『大坂冬の陣』が勃発。豊臣軍は『真田幸村』などの活躍もあり『徳川家康』を苦しめますが、イギリスから買った大砲を撃ち反撃。徐々に劣勢になり和議に応じます。」

B「どんな内容なの??」

A「大阪城の堀を埋めたり、二の丸、三の丸を壊すことだね。」

B「なるほど。次に攻めやすいようにだね。」

A「そして1615年『大坂夏の陣』が起こります。この時点で大阪城は丸裸にされているので、徳川軍の勢いを止めることが出来ませんでした。『真田幸村』は『伊達正宗』と戦い善戦するものの討ち死にします。そして『豊臣秀頼』と『淀殿』は自害。『徳川家康』の勝利で幕をとじました。」

B「これから徳川の時代か。」

A「その翌年『徳川家康』はこの世を去ります。そして天下泰平の世が訪れるのです。」

B「本日の分はこれで終了です!!いやぁ今日のはすごい長かったね。」

A「有名なのは結構扱ったと思います。皆様の参考になれば。」

B「それではみなさん、また次回!!」

 

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