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わかった気になる!!日本史 江戸時代編

長い江戸時代の始まり。幕末の手前まで見ていきます。

 

 

江戸幕府…江( ^ω^)
260年近く日本を治める徳川家。なが~い江戸時代の始まり始まり~。

豊臣秀吉は、自分の跡を息子の『秀頼(ひでより)』に継がせるつもりでいましたが、まだ幼く、とても一人で政治をすることはできませんでした。

豊臣秀吉「わしがいなくなってからも豊臣家が政治をしていきたいのだが…息子の『秀頼(ひでより)』は幼すぎる。だから、『秀頼(ひでより)』を補佐する奴らが必要じゃな。」

ということで、『五(ご)奉行(ぶぎょう)・五大(ごたい)老(ろう)』というシステムが作られました。

まぁただ単に、この人たちが『秀頼(ひでより)』が大人になるまで政治を代わりにやってあげるって人たちね。

しかし、この中に『石田光成』『毛利輝元(てるもと)』『徳川家康』などがいました。

そして秀吉が亡くなると…

徳川家康「あの猿め、ようやく死におったか。農民ふぜいが出しゃばりおって…ここからはわしの時代じゃ!!」

といって、『五(ご)奉行(ぶぎょう)・五大(ごたい)老(ろう)』の決まりごとを破りまくって、天下を取るために動きました。

しかし…

石田光成「あのタヌキ!!豊臣家を潰そうとしておるな!!このままじゃいかん。何としてもあいつを討たなければ!!」

こうして、徳川家康の暴挙に危険を感じた石田光成は毛利輝元(てるもと)らに協力を求め、徳川家康を討とうとします。これが『関ヶ原の戦い』です。

西は毛利輝元、石田光成らで最初は有利に事を進めていたのですが、いろいろな人の裏切りで東軍の勝利に終わりました。

毛利輝元「まぁ自分西の大将だったんですけど、俺自身が家康と内通してたしな。」

とまぁそんな状態だったので、この戦いは何と半日で片が付く始末。

そんで、ここから江戸時代が始まるのであった。

江( ^ω^)「よぉし、征夷大将軍になったし、江戸に幕府を開くよ!!」

こうして、江戸時代は幕を開けるわけだが、まだ大阪に豊臣秀頼(ひでより)がいました。

江( ^ω^)「反乱分子がいてもらっても困るなぁ。もう豊臣の時代は終わったんだ!!叩き潰すぞ!!」

ということで、大坂冬の陣で、大阪城の堀(ほり)を埋められて城を丸裸にして、夏の陣では丸裸にした城を攻めて豊臣家を滅ぼしたのだった。

江( ^ω^)「新しい世の中を作るよ!!もちろん徳川中心の。てことで、大名を3つに分けるよ。」

ここで、『親藩(しんぱん)』、『譜代(ふだい)大名(だいみょう)』、『外(と)様(ざま)大名(だいみょう)』の3つに分けました。『親藩(しんぱん)』は徳川家康の男系子孫、『譜代(ふだい)大名(だいみょう)』は関ヶ原の戦い以前からの徳川の味方。『外(と)様(ざま)大名(だいみょう)』は関ヶ原の戦いの後、しぶしぶ味方になった大名です。

で、この『外(と)様(ざま)大名(だいみょう)』最後まで徳川に反抗した奴らで、またいつ反抗してくるか分からん反乱分子です。そのため、幕府の要職に就くこともできませんでした。

江( ^ω^)「『一(いっ)国一(こくいち)城令(じょうれい)』をつくったよ。大名の城は一つだけね。だからほかの城は全部壊してね。」

と言って、城を壊していきました。また、当然『外(と)様(ざま)大名(だいみょう)』は交通の要所に城を構えることは許されず、不便なところに追いやられました。

また、『改易(かいえき)』や『減封(げんぷう)』を行い大名の領地を削減していきました。

先の毛利輝元(てるもと)もこのことで、領地を減らされました。で、残された領地はのちに長州藩になっていくのですが、それはまた別のお話。

江( ^ω^)「大名にもルールが必要だよね。ってことで『武家(ぶけ)諸法度(しょはっと)』作りましたんで従ってください!!」

こうして、自由に結婚すること、城を修理するにも許可がいるなどが決められ、さらに『参勤交代』の制度も確立していきました。

江( ^ω^)「こうやっていろいろ大名に金を使わせるところがミソなんだな。参勤交代なんてめっちゃ金かかるし。でも人質がいるから来ないわけにもいかないし。さらに『外(と)様(ざま)大名(だいみょう)』は交通の要所から外しといたから、さらに金がかかって勢力を縮小できるし…いいことづくめだなぁ。」

江(*^ω^)「でも、反乱起こすのは大名だけとは限らない。念には念をってことで朝廷にもルールつくったよ!!」

ということで『禁中(きんちゅう)並(ならびに)公家(くげ)諸法度(しょはっと)』を制定。「天皇は家で勉強でもしてな!!」とか書かれて天皇の行動を抑制したのだった。

さらに幕府の組織も確立していき、京都に『京都所司代(きょうとしょしだい)』を置き、朝廷を監視する組織も誕生した。まぁ鎌倉時代にあった『六波羅探題(ろくはらたんだい)』みたいなもんかね(←知ってるよね??)

江( ^ω^)「やっぱり貿易は儲かるなぁ…ポルトガルもスペインも『朱印(しゅいん)船(せん)貿易(ぼうえき)』で良好な関係を結んでるし。」

しかし、これらの国では宣教師が乗っていて地元でのキリスト教勢力を伸ばしていました。

江(;^ω^)「なんかキリスト教とかいうのがすごい勢力になっちゃた…しかも、一番偉いのは神様だと…この世で一番偉いのは将軍でないといけないのに…」

また、そんな折に『島原(しまばら)の乱(らん)』が起こる。

江(#^ω^)「こうなったら、バテレンは追放だ。キリスト教を入れないようにしよう。」

バテレンとは宣教師のことで、これ以上キリスト教を布教させないようにしたのだ。さらに、ポルトガル、スペインの貿易も中止して、鎖国するようになっていくのだった。

ちなみに、ヨーロッパのなかでオランダだけは貿易が許されていたが、オランダは布教活動と貿易活動とを別々に行っていたから大丈夫だったのでした。

ただし、余計な知識が入ってこないように出島だけに追いやりましたが…

で、その後『由井(ゆい)正雪(しょうせつ)の乱(らん)』という、クーデター(未遂)が起こったりします。

そして、『徳川綱(つな)吉(よし)』が5代将軍になります。

江(;^ω^)「後継ぎが生まれないのはなぜですか??教えてくれ偉い人!!」

で、偉い人が「犬を大切にしたら良いよ」とかテキトーなことを言ってしまったので…

江( ^ω^)「みんなぁ犬を大切にしてね!!傷つけたら容赦しないよ。てか犬だけじゃなくて、生きとし生けるものすべてを大切にしてね!!」

こうして作られたのが『生類憐(しょうるいあわれ)みの令(れい)』だ。
一応いい面を紹介すると姥(うば)捨(す)てとか犬害対策にはなったらしいですよ

ここで少し余談ですが、『吉良(きら)上野(こうずけの)介(すけ)』と『浅(あさ)野内(のたくみ)匠頭(のかみ)』との間にひと騒動があり、『浅(あさ)野内(のたくみ)匠頭(のかみ)』にちょっかいをだした『吉良(きら)上野(こうずけの)介(すけ)』が斬られるという事件が起こります。

その後、『浅(あさ)野内(のたくみ)匠頭(のかみ)』は切腹だったにもかかわらず『吉良(きら)上野(こうずけの)介(すけ)』はお咎(とが)めなしでした。その結果に納得いかない『赤穂浪士(あこうろうし)』は殿の無念を晴らすべく討ち入りを果たし『吉良(きら)上野(こうずけの)介(すけ)』の首を取りました。このことを『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』といいます。

話は戻って、綱(つな)吉(よし)が死んだあと『新井(あらい)白石(はくせき)』のもとで政治が行われる。先ほどの『生類憐(しょうるいあわれ)みの令(れい)』も取り消しました。

江( ^ω^)「前の将軍アホすぎだろ…これからは真面目に政治をしていくよ!!」

ということで、『正徳(しょうとく)の治(ち)』と呼ばれる政治を行う。
経済政策などを行い金銀の流出を抑える方針を取りました。
そして、8代将軍徳川吉宗の登場です。

江( ^ω^)「『目安箱』に『公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)』、『倹約令(けんやくれい)』も出しちゃうよ!!」

『目安箱』で、医療施設である、小石川(こいしがわ)養成所(ようせいじょ)を設立して、さらに、『火消し』も作りました。また、裁判の基準を統一するために『公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)』を作ったり、幕府の財政が厳しかったので節約するようにした『倹約令(けんやくれい)』を出しました。

また、キリスト教以外の洋書を輸入しても良いことにするなど、いろいろな改革を行いました。そして、これらの一連の改革のことを『享保(きょうほう)の改革(かいかく)』と言います。

そして、9代将軍と10代将軍に仕えた『田沼(たぬま)意(おき)次(つぐ)』が政治を行います。

江( ^ω^)「まず、予算について考えてみようよ。どの部門にどのくらいお金を使うか決めよう。それに、飢饉のときに買占めはしちゃダメだよ!!商人も売り惜しみはするな!!」

こうして、大奥などの部門も予算を削減しました。

江( ^ω^)「やっぱり、節約ばっかりやっても根本的な解決にはならないな…商業からも税を取ろう!!まぁもちろんこれは商人から批判が来るだろうから、『株(かぶ)仲間(なかま)』を許可するよ!!」

つまり、『株(かぶ)仲間(なかま)』という商業組合を承認して、そこに独占的な販売権を与えるってこと。

商人は税を取られるけど、独占的な販売ができるので値段を高く設定してその分を取り戻せるからね。

こうして、商業重視の政策を進めていった田沼ですが浅間山の噴火や、天明の大飢饉などがあって失脚してしました。

そして、『松(まつ)平定(だいらさだ)信(のぶ)』が『寛政(かんせい)の改革(かいかく)』を行います。

江( ^ω^)「白河(しらかわ)(福島県)藩主で、この天明の大飢饉を乗り切ったので、その功績を認められて老中になったんだよ。」

とか言ってる『松(まつ)平定(だいらさだ)信(のぶ)』なんだが…実は飢饉を乗り越えれたのはこういうカラクリだったのだ。

飢饉がおこる→田沼は「米を買い占めるな」と言っているが無視。→大阪で米を買い占める→それを領地に配っただけということなのだ。

しかも米を買い占めたのでコメの価格は上がるわ、本当にコメがほしいところに行き渡らないわで、全体を見ると全然よくなかった。

さらに、田沼の政治をワイロ政治と言って失脚させたのだが、他ならぬ本

人も実は田沼にワイロを送っていたのだ。

さぁそんな彼に改革ができるのでしょうか…

江(;^ω^)「反田沼を掲げて政治してみたんだけど…あんまり評判良くないな。」

彼が行った政治はとりあえず田沼がやってきたことを反対することでした。

まず商業中心だったものを農業中心にしました。

江(#^ω^)「江戸に人が多すぎなんだよ!!これじゃ地方の農村が荒れちまう。ってことで強制的に帰らせるよ!!それに君たちは遊んでないで勉強と剣道でもしときなさい!!贅沢は駄目よ!!」

と、強引に政治を推し進めました。

なので、庶民からは「世の中に 蚊(これ)ほどうるさき ものは無し ブンブブンブ(文武)と 夜も眠れず」と皮肉られました。

さらに、勉強と言っても『朱子学(しゅしがく)』のみだったので不満がでました。

なぜ『朱子学(しゅしがく)』だったかというと、まぁ要するに身分の上下関係を認めるようなことが書いてあるので幕府に都合がいい内容だったんです。

あと、思想の統一を計りたかったからですね。

そして、天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)が起こる。

江( ^ω^)「なんだか飢饉が起こってるみたいだね…でも、今は現状を注視するよ!!」

なんて言ってたら、『打ちこわし』と『百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)』が急増しました。

はい、ここで解説コーナーです。

分かった気になる!!『打ちこわし』と『百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)』

『打ちこわし』は、都市部の人たちが「お米が高くて買えねーぞ!!こうなったら米屋襲うしかねぇ!!」って言って起こります。『百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)』は農村の人たちが凶作のときに、「これ以上、年貢払えねぇ…それでも取るんなら抵抗するぞ!!」って言って抵抗します。

で、こんな状況なのに幕府はなにもせず。こんな状況を見かね『大塩(おおしお)平八郎(へいはちろう)の乱(らん)』がおこりました。

しかも、この人はもともと幕府の人間だったので、幕府は驚きました。

そしてこのあたりから幕府の権威が落ち始めていくのでした。

その後、アメリカのモリソン号が、漂流民を返しに来たのですが、『異国船打ち払い令』が出されていたため、追い返してしまいました。

そのことを蘭学を学んでいた集団に批判されたので、『蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)』で『高野(たかの)長英(ちょうえい)』や『渡辺崋山(わたなべかざん)』らを処分しました。

そんなときに『水野忠邦(みずのただくに)』の『天保(てんぽう)の改革(かいかく)』が行われました。

江( ^ω^)「とりあえず贅沢禁止ね。『倹約令(けんやくれい)』をだすよ。あと、不当な価格で値段を釣り上げている『株(かぶ)仲間(なかま)』め。許さんぞ!!ってことで君ら解散ね。あと、幕府を批判するような出版物はやめてね。全部チェックするから。てか、農民は帰れって。あと、江戸と大坂周辺は全部幕府の直轄地(ちょっかつち)にするからよろしく。」

ということで、色々なことをやりますが、すべて的外れ。

農民を返すって言ったて、農村じゃ生活できないから江戸に来たわけで…

それが帰ってももどうにもなりませんよね。

『株(かぶ)仲間(なかま)』はべつに好き勝手な価格にしたわけではないのですが、やり玉に挙げられて解散命令を受けますが、このことで流通システムの混乱を招き、返って混乱させてしまいました。

江戸と大坂の周辺を直轄地(ちょっかつち)にするという『上知令(あげちれい)』は幕府の権威を高めるために行おうとしたのですが、各大名から不満が続出し、結局失敗に終わっています。

逆にさらに権威を落とす羽目になるのでした。

そして、ペリーが来ることによってとうとう幕末を迎えることになるのだった。



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