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わかった気になる!!日本史 平安時代編

意外と長い平安時代。なぜ貴族の世から武士の世へ変わってしまったのでしょうか??

 

 

平安時代…平(´・ω・`)

794年から1192年までの長い間が平安時代。実は江戸時代より長いんです。


平(´・ω・`)「ふむ、東北の奴らがまろの言うことを聞かんとな??とっちめてやるのじゃ」

と言うことで、『坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)』を『征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)』として出陣して成果を収めます。

そして、平安京への遷都から10年が経とうとしたとき、中国(唐)から2人のお坊さんが帰国しました。2人の名前は『最澄(さいちょう)』と『空海(くうかい)』。この2人が日本の仏教界を変えていくことになります。

平(´・ω・`)「ふむ、まろは新しい仏教が好きじゃ、存分に広めるとよい。」

ということで、

『最澄(さいちょう)』は『天台宗(てんだいしゅう)』を広めるため『比叡山(ひえいざん)』に『延暦寺(えんりゃくじ)』を建てました。

『空海(くうかい)』は『真言宗(しんごんしゅう)』を広めるため『高野山(こうやさん)』に『金剛(こんごう)峯寺(ぶじ)』を建てました。

平(;´・ω・)「ふむ、何やら朝廷内が騒がしいようじゃ…藤原家の者じゃな。」

このときから力を持っていた藤原家。敵対勢力が少なくなったので、今度は身内で権力争いをしていました。

平(;´・ω・)「ふむ…どちらも天皇になりたいと言って駄々をこねておるようじゃ。まさか2人とも天皇にするわけにはいかないので、『平城(へいぜい)天皇(てんのう)』には控えていてもらおう」

このとき、『嵯峨(さが)天皇(てんのう)』と『平城(へいぜい)天皇(てんのう)』がどちらも「俺が天皇だからヨロシク」と言っていました。そこに目をつけた『藤原(ふじわらの)薬子(くすこ)』は自分たちの株を上げようとして、『平城天皇』に耳打ちをして天皇になるように仕向けました。この事件を『薬子(くすこ)の変(へん)』と言います。

結果は失敗に終わり『藤原(ふじわらの)薬子(くすこ)』は服毒自殺しました。

この後も藤原家のゴタゴタは続いていきます…

 


そんな中、一人の男がものすごい勢いで出世していった。

平(´・ω・`)「ふむ、そちが『菅原道真(すがわらのみちざね)』か。まろのもとで存分に働くとよい。何々…『遣唐使(けんとうし)』はもう廃止した方がよいとな??ならばそうしよう。」

ということで、『遣唐使(けんとうし)』を廃止しました。なぜ廃止したのでしょう??

平(´・ω・`)「唐に行くのも命がけじゃからの…ほとんどの者は命を落とす。優秀な人材をこれ以上流出したくはないしの…それに唐はもうボロボロでいつ崩壊してもおかしくはない。『遣唐使(けんとうし)』は出さなくても良いな。」

こうして、『菅原道真(すがわらのみちざね)』のもとで、政治を行っていたが…

平(´・ω・`)「ときに、そち。色々と隠し事をしとるそうじゃの!!藤原家の者が言うておったぞ!!そちは左遷(させん)じゃ!!」

実はこれ『菅原道真(すがわらのみちざね)』の出世ぶりを面白く思わない藤原家の者が色々とイチャモンをつけて、追いやってしまったのです。こうして邪魔ものを追い出した藤原家はさらに勢力を増していきます。さらに…

平(´・ω・`)「ふむ、『摂関(せっかん)政治(せいじ)』こそが最強の政治体系でおじゃる。」

ということで、『藤原(ふじわらの)道長(みちなが)』が『摂政(せっしょう)』や『関白(かんぱく)』などになって色々政治に口を出していました。ちなみに『摂政(せっしょう)』とは天皇が子供だったり、女の人だったりした時に、代理で政治をする人の事で、『関白(かんぱく)』とは天皇は大人になったのに、なんだかんだと口を出す人の事です。

平(´・ω・`)「この世はまろの思う通りじゃ。実に愉快じゃ!!」

ということで、『この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたる事も 無しと思へば』と歌いました。この意味は『世の中俺中心に回ってんじゃね??俺の心は、あの満月みたいに、少しもかけることなく満たされてるぜ!!』みたいな感じです。

しかし、超満足していた世の中も次第に上手くいかなくなってしまいます。

平(´・ω・`)「藤原家のやつ本当にウザいでおじゃる。このままでは天皇家は藤原家の操り人形になってしまうでおじゃる。」

ということで、『白河(しらかわ)上皇(じょうこう)』が『院政』を始めました。

でも、その前に用語の確認。

『上皇(じょうこう)』ってなんですか??

→別名『院』とも呼ばれ、天皇になった人が「俺もう天皇飽きたから辞めるわ」って言って、天皇を辞めた人がなる『位(くらい)』です。まぁつまり、もと天皇ってわけ。

ちなみに、天皇とか上皇が「俺もうこんな世の中嫌だから出家(しゅっけ)するわ」って言って出家(しゅっけ)した人が『法皇(ほうおう)』と呼ばれます。

『院政』ってなんですか??

→上でも紹介したけど上皇の事を『院』って呼んでました。で、その『院』が政治をするので『院政』と呼ばれます。

平(´・ω・`)「と、まぁそんな感じで『院政』をやったでおじゃる。つまり、天皇の父親、あるいは天皇のじいちゃんとして、何だかんだと天皇を無視して命令を出していたのじゃ。」

で、この『院政』、しばらくは上手く回って言っていたのですが、次に誰が『院政』をやるかで争い事が起きてしまいます。そんで…

平(´・ω・`)「武士の力を借りて相手を成敗するでおじゃる」

こうして、『後白河(ごしらかわ)天皇(てんのう)』と『崇(す)徳(とく)上皇(じょうこう)』の天皇家のお家騒動は『後白河(ごしらかわ)天皇(てんのう)』の勝利で幕を閉じます。

平(´・ω・`)「まろに味方した武士が良く活躍したでおじゃる。よくやったでおじゃる。」

このとき、『後白河(ごしらかわ)天皇(てんのう)』に味方した武士は『平清盛(たいらのきよもり)』や『源頼朝(みなもとのよりとも)の親父』です。

ちなみにこの戦争を『保元(ほうげん)の乱(らん)』と言います。

負けてしまった『崇(す)徳(とく)上皇(じょうこう)』。あまりに悔しかったのか「天皇家を没落させてやる!!」という文章を自分の血で書き残して死んでいきました。


前のページで、「天皇家を没落させてやる!!」と書いた呪いでしょうか…
「『保元(ほうげん)の乱(らん)』は武士がいたから勝てたんだ。だから少しは俺の言うことも聞いてくれよ!!」と言ってきました。この辺りから少しずつ武士の力が強くなっていきます。

平(;´・ω・)「ふむ、『平清盛(たいらのきよもり)』と『源頼朝(みなもとのよりとも)の親父』がもめてるでおじゃる…」

『保元(ほうげん)の乱(らん)』では一緒に戦った2人。しかし今回の『平治(へいじ)の乱(らん)』ではこの2人が争うことになりました。

平(´・ω・`)「『平清盛(たいらのきよもり)』が勝ったのか…では、そちを『太政(だいじょう)大臣(だいじん)』に任命しよう。」

こうして、『平清盛(たいらのきよもり)』は武士として初めて『太政(だいじょう)大臣(だいじん)』の座に付きました。

そして、平氏が政治の実験を握ると中国(宋)と貿易をして経済力をつけたり、軍事力をつけていったりで、平氏の天下となりました。

しかし、「盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)のことわりをあらわす…」と言うのでしょう。

平氏は武士出身だったのにもかかわらず、武士のための政治をあまりしなかったので、次第に武士から嫌われるようになります。

そして、『源頼朝(みなもとのよりとも)』などが攻めてきて、『壇ノ浦(だんのうら)の戦い』で平氏は滅亡していきました。

余ったスペースでどーでもいい説明。
番外編(分かった気になる!!『太政(だいじょう)大臣(だいじん)』と『征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)』)

『太政(だいじょう)大臣(だいじん)』とは、左大臣、右大臣の上というか取りまとめ役のような役職です。朝廷における総理大臣みたいなものです。

『征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)』とは、都から遠く離れた野蛮人が住む土地を制圧するための役職、それが征夷大将軍の始まりです。それが時代を経て、「武士の棟梁(とうりょう)」=「征夷大将軍」となっていったわけです。朝廷における防衛庁長官みたいなものですね。

ところが、ようは武力を持っているのは武士ですから、実質的に国家の治安維持をその棟梁(とうりょう)たる征夷大将軍に朝廷がまかせましょうということで開かれるのが幕府ということになります。ですから、幕府とは朝廷の下部組織のようなものです。ただし、幕府が実質的な支配権を持っており、朝廷はそれにお墨付きを与えているという感じですね。

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